彼女が初めて「関元一点灸」を教えてくれたのは、僕たちが大学の図書館で夜遅くまで勉強していた日のことだった。
「ねぇ、知ってる?お腹の真ん中、関元っていうツボにお灸をすると、体がポカポカして元気になるんだよ」
彼女はノートの端に描いたお腹のイラストを指しながら、そう言った。
僕は、へぇ、と生返事を返しただけだった。
関元がどこにあるかも知らなかったし、その時の僕はツボとかお灸とか、そんなものに興味を持つ余裕なんてなかった。
それから数か月後、僕たちは一緒に京都へ小旅行に出かけた。
大学の最寄り駅から電車を乗り継ぎ、向かった先は古い町並みが広がる東山のはずれ。
そこで彼女がどうしても行きたいと言っていた、古びたお灸屋さんを訪れたのだ。
「ここがその場所?」と僕が聞くと、彼女は小さく頷いた。
「うん。ここなら、関元一点灸にぴったりのお灸が手に入るって聞いたんだ」
小さな店の中には、木製の棚に色とりどりのもぐさが並んでいた。
店主のご婦人が、丁寧にお灸の使い方を教えてくれた。
その様子を横目で見ながら、僕は不思議な気分だった。
彼女は何かに夢中になっているとき、いつも目がキラキラしていた。
その輝きが、僕の中にある冷え切った部分を少しずつ温めてくれる気がした。
「帰ったら、一緒にやってみようよ」と彼女は言った。
僕は、あぁ、と適当な返事をしたけれど、正直なところ、まだそこに特別な意味を感じていなかった。
それから2年が過ぎた。
大学を卒業して僕は就職し、彼女は故郷へ帰ることになった。
僕たちは、これからも連絡を取り合おうと約束したけれど、なんとなくその約束は果たされないだろうな、という予感があった。
ある日、仕事に追われていた僕のもとに、小さな包みが届いた。
送り主は彼女だった。
中を開けると、そこにはお灸のセットと、手紙が入っていた。
「久しぶり。
元気にしてる?
お灸を見て、君のことを思い出したんだ。
あのとき、京都で買ったものと同じお灸を見つけたから送ります。
忙しい日々の中で、自分のことを大切にしてね。
関元に据えたら、きっと心も体も温まるよ。
またどこかで会えたら嬉しいです」
僕はその手紙を何度も読み返した。
彼女が話していた「関元一点灸」を、あの時は大して気にも留めなかったけれど、今になってその意味が少し分かった気がする。
その夜、僕は彼女に教わった通り、関元の位置を探し、初めてお灸を据えた。
もぐさに火を点けると、小さな炎がゆらゆらと揺れ、その熱がじんわりとお腹に広がった。
不思議なことに、その熱は体だけでなく、心の奥底にも届いているように感じた。
あの京都の店での彼女の笑顔、図書館でノートに描いたお腹のイラスト、そして手紙の中の優しい言葉。
すべてが僕の中で繋がり、忘れかけていた大切な記憶が蘇ってきた。
それから数年後、僕は偶然彼女と再会した。
小さな駅前のカフェで、久しぶりに向かい合った僕たちは、なんでもない話をして笑った。
「関元、一人でやってみたよ」
そう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
関元一点の熱は、僕たちの間に消えない灯火を残してくれていたのかもしれない。