目が覚めたとき、僕の腹に火がついていた。
いや、正確にはお灸だ。
もぐさがじわじわと燃えていて、腹の中心が妙に暖かい。
「一体、なんなんだこれは?」
僕は慌てて身を起こしたが、どういうわけか体が動かない。
まるでベッドに縫い付けられたような感覚だ。
それにしても、この状況には見覚えがない。
昨日は確か、仕事が終わった後にビールを飲み、適当にラーメンをすすって帰ったはずだ。
それなのに、目覚めたら腹の上でお灸が燃えている。
これはどう考えても普通じゃない。
「あら、起きたのね」
突然、部屋の隅から声がした。
見ると、薄暗い空間の中に小柄な老婆が立っている。
「お前、誰だ?」僕はそう尋ねるが、声に迫力がなかった。
老婆は不敵な笑みを浮かべて近づいてきた。
「私は『灸師』だよ。関元一点灸のスペシャリストさ。あなたの体を救うためにここにいるの」
老婆の声には不思議な響きがあった。
それは、たとえるなら、古びた楽器の音色が遠くから聞こえてくるような感じだ。
「救うだって?腹に火をつけておいて、何が救いだ!」
僕は叫んだが、老婆は気にも留めずに続けた。
「あなたの腹は冷え切っているのよ。このままだと、内臓が悲鳴を上げ、気の巡りが完全に止まるわ。そうなったら、あなたの人生はお終い。だから私が助けに来たのよ」
「……何言ってんだ?」
僕は老婆の話が全く理解できなかった。
だが、その時、不意に腹の中に奇妙な感覚が広がった。
まるで、何かが動き始めたような感触だ。
内臓が、普段とは違うリズムで脈打ち始める。
お灸の熱が体の中に染み込んでいくたびに、僕の頭の中で不思議な映像が浮かび上がった。
そこには、若かりし頃の僕がいた。
高校生の僕がバスケ部で練習に励む姿、大学生の僕が恋人と夜の街を歩く姿、そして社会人になった僕が終電間際の電車で疲れ果てている姿……。
「これは……過去の自分?」
僕は言葉を失った。
老婆が微笑みながら答える。
「そう。関元一点灸はね、体だけじゃなく、心の中にも働きかけるのよ。あなたが忘れてしまった大切なものを、思い出させる力があるの」
老婆の言葉とともに、腹の熱が一層強くなる。
すると、今度は未来の映像が見えた。
老人になった僕が、静かな庭で一人、茶を飲んでいる。
そして、その隣には見知らぬ女性が座っている。
彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、僕と話しているようだった。
「これは……俺の未来か?」
「そうよ。でも、この未来を手に入れるためには、今のあなたが変わらなければならないわ」
老婆の声はどこか厳かだった。
「変わる?俺が?」
「そう。冷え切った心と体を温めなさい。自分を見つめ直し、未来に向けて歩き出すのよ。関元一点灸は、その第一歩を助けるためにあるんだから」
その言葉が響いた瞬間、僕の体がふっと軽くなった。
そして、目の前の老婆がゆっくりと消えていく。
お灸の熱も消え、部屋は静寂に包まれた。
翌朝、目が覚めたとき、僕は自分の腹をそっと触った。
そこには火傷の痕もなく、ただほんのりと暖かい感覚が残っていた。
それが夢だったのか現実だったのか、僕には分からなかった。
けれど、不思議と心の中は静かに澄んでいた。
そして、僕はその日から、少しだけ違う自分を生き始めることにした。