その朝、僕は唐突に「体の芯が冷えている」と感じた。
実際、部屋は暖房の効いた快適な空間だったし、手元のコーヒーも湯気を立てていた。
それでも、体の深いところ、何か重要な部分が冷え切っているように思えた。
理由は分からない。
そうした理由の分からなさこそが、僕の人生にはしばしばつきまとっていた。
僕はネットで「体の芯 冷え 解消」という曖昧な検索ワードを入力してみた。
すると、ひとつの記事が目に留まった。
「関元一点灸」という見慣れない言葉がそこに書かれていた。
記事は、関元という体の中心にあるツボに据えたお灸が、心身を温め、気の流れを整えると説明していた。
その文章は、妙に僕の心を惹きつけた。
まるで、自分の体がその言葉に静かに呼応しているかのように。
その日の午後、僕は町外れの古びた鍼灸院の前に立っていた。
名前も知らない場所だったが、なぜかそこへ行かなければならないような気がしていた。
「円環堂」という看板が掲げられたその建物は、まるで時間の中に取り残されたようだった。
誰かに呼ばれるような感覚で、僕は引き戸を開けた。
中に入ると、50代くらいの女性が静かに座っていた。
彼女の表情はどこか懐かしさを感じさせるものだった。
「こんにちは」と僕は少し不安げに声をかけた。
「いらっしゃいませ。どうされましたか?」
彼女は穏やかな声で答えた。
僕は自分の中にある説明のしようのない冷たさを、できるだけ簡潔に伝えた。
彼女は一度静かに目を閉じ、そしてうなずいた。
「関元一点灸を試してみましょうか」と彼女は言った。
施術室は小さく、最低限のものしか置かれていなかった。
僕は指示されるままに横になり、シャツを少し上げた。
彼女はもぐさを丸めて、小さな塊を僕の下腹部にそっと置いた。
そこが関元だと彼女は教えてくれた。
火を点けた瞬間、小さな熱がじわじわと肌に伝わり始めた。
その熱は、やがて腹の奥深くへと浸透していくようだった。
「この一点が、あなたの体の中心を温めます」と彼女は言った。
僕は目を閉じ、その感覚に意識を集中させた。
最初は小さな熱に過ぎなかったが、それはまるで波紋のように広がり、体全体に浸透していくようだった。
その熱が僕の冷え切った部分に触れ、何かを解き放っていくのを感じた。
時間がどれだけ経ったのかは分からない。
ただ、いつしか僕の中に漂っていた冷たさはすっかり消えていた。
「どうですか?」
彼女は静かに尋ねた。
「驚くほど、体が温かいです。そして……軽い気がします」と僕は答えた。
彼女は穏やかに微笑んで頷いた。
「関元は、命の根源を支えるツボです。この一点が整うと、心身のバランスが自然と回復しますよ」
僕は彼女の言葉を受け止めながら、自分の中にある変化を確かめた。
それは単なる温かさではなく、もっと根本的なもの、僕が長い間失いかけていた何かだった。
施術を終え、僕は店を後にした。
外に出ると、空は灰色の雲に覆われていたが、不思議と気持ちは晴れやかだった。
体の中心に残る小さな熱が、僕の一歩一歩を支えているように思えた。
その後も、あの鍼灸院のことを誰かに話すことはなかった。
でも、僕の中で「関元一点灸」の記憶は静かに息づいている。
その小さな火が灯したものは、僕にとってただの治療ではなく、自分自身との新しい対話の始まりだったのだと思う。