冬の冷え切った夜、静かな町外れにある「円香堂(えんこうどう)」という鍼灸院には、重厚な空気が漂っていた。
店主である60代の男、北村修一は、その日も丁寧に患者を診ていた。
彼の元に訪れるのは、心身の不調を抱える人々が多い。
特に最近は、現代のストレス社会に疲弊した若者たちが絶え間なく押し寄せていた。
その日最後に訪れたのは、30代の女性、望月綾子だった。
彼女は疲労感を訴えており、何をしても回復しないと肩を落としていた。
仕事に追われ、生活のリズムも乱れ、心と体のバランスを失っていた。
「眠れないんです。体は重くて、食欲もない。何をしても、心の中が空っぽな気がして……」
北村は彼女の話を聞きながら、しばらく沈黙した。
目の前にいる綾子は、心身ともに疲れ果て、魂までも消え入りそうな様子だった。
そんな彼女に、北村はある方法を提案した。
「綾子さん、今日は神闕丹田灸を試してみましょうか。これは丹田と呼ばれるお腹の深い部分にあるツボを温めて、気の流れを整える施術です」
「神闕丹田灸……?」と綾子は少し不安そうに顔を上げた。
北村は優しく微笑みながら説明を続けた。
「神闕はお腹の中心にあり、丹田は体のエネルギーの貯蔵庫とされています。この二つのポイントを温めることで、全身の気を整え、心の乱れを落ち着かせる効果がありますよ」
綾子は少し迷いながらも、北村の信頼感に背中を押されるように頷いた。
「お願いします」
北村は丁寧に準備を始め、もぐさを丸め、慎重に火をつけた。
そして、綾子の腹部、へその周りに据えるようにそっともぐさを置いた。
じわりと広がる熱が、彼女の体を包み込み、冷えた心と体をゆっくりと温めていく。
「この温かさ、心の奥に届いていくような感じがします……」
綾子は驚いたように呟いた。
今まで感じたことのない深いリラックス感が、じわじわと心に広がっていくのを感じた。
神闕のツボに据えたお灸の熱が、まるで閉じ込められていた自分のエネルギーを解き放つように、全身を巡っていった。
北村は静かに彼女の反応を見守りながら、さらに丹田のツボにもお灸を据えた。
「丹田は、気を整える中心です。この熱があなたの内なる力を呼び覚ますでしょう」
綾子は目を閉じ、身体の中で何かが変わっていくのを感じた。
深く閉じ込めていた感情や不安が、静かに溶けていくようだった。
何か大きな、見えない力が自分の内側で再び燃え始めたかのようだった。
「何かが変わる……そんな気がします」
施術が終わる頃には、綾子の表情は明らかに柔らかくなっていた。
彼女はすっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
その一呼吸が、まるで新しい自分を迎える儀式のように感じられた。
「神闕丹田灸は、ただ体を温めるだけではなく、心の深い部分にも働きかけます。体の中心が温まると、自然と心も整い、再びエネルギーが湧いてくるでしょう」
北村はそう言いながら、優しく彼女に微笑みかけた。
綾子は感謝の言葉を口にしながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。今日初めて、自分の心が少しずつ癒えていくのを感じました」
彼女はその日、再び自分の中に灯った熱を胸に抱いて、鍼灸院を後にした。
外に出ると、冬の冷たい風が彼女の顔を撫でたが、不思議と冷たさを感じることはなかった。
内側に灯った温もりが、彼女の一歩一歩を照らしているようだった。
円香堂の入り口で北村は彼女の背中を見送りながら、静かに思った。
この小さな火の力が、これからも多くの人々の心と体を温め続けることを願って。