小さな町にある古びた鍼灸院「光風堂」には、長年、地域の人々が訪れていた。
祖母の代から続くその鍼灸院を継いだのは、30代半ばの女性、杏子(きょうこ)だった。
彼女は幼い頃から祖母に教わりながら、お灸や鍼の技術を習得してきた。
ある日、杏子の元に中年の男性が訪れた。
彼の名前は佐藤誠一と言った。
疲れ切った表情で、どこか人生に行き詰まっているような印象を受けた。
「最近、眠れないんです。仕事のストレスもあって、体が重くて仕方ないんですよ」と誠一はため息をつきながら話した。
杏子は彼を診察台に案内し、静かに尋ねた。
「誠一さん、お灸は試したことがありますか?」
誠一は首を横に振った。
「いいえ、初めてです。でも、これが効くなら、ぜひ試してみたいと思っています。」
杏子は微笑んで、お灸の道具を用意し始めた。
もぐさを丸め、慎重に火をつけて、誠一の腰のツボに据えた。
ゆっくりと熱が皮膚に伝わり、じんわりとした温かさが広がっていく。
「どうですか?」
杏子は優しく声をかけた。
「……ああ、思っていたよりも心地いいですね。こんなにリラックスできるとは思いませんでした」
誠一の表情が次第に和らいでいくのを見て、杏子は安心した。
この小さな火の力が、どれだけの人々を癒してきたかを彼女は知っていた。
お灸の持つ不思議な力は、ただ身体の痛みを和らげるだけではなく、心にも働きかけるものだった。
施術が終わった後、誠一はしばらくその場で横になったまま、静かに目を閉じていた。
そして、杏子が片付けを終えたころ、誠一はゆっくりと起き上がり、深呼吸をした。
「なんだか、心の奥にあった重みが取れたような気がします。こんな感覚、久しぶりです」
杏子はにっこりと微笑んだ。
「お灸は、身体と心のバランスを整えるお手伝いをしてくれるんです。誠一さんが少しでも楽になれたなら、私も嬉しいです」
誠一は立ち上がり、深々と頭を下げた。
「ありがとう、杏子さん。これからも、ここに来させてください」
杏子は静かに頷いた。
「もちろんです。いつでもお待ちしていますよ」
誠一は鍼灸院を後にし、澄んだ秋の空気の中を歩いていった。
肩の重みが少しだけ軽くなり、心に灯がともったような気がした。
小さな町の鍼灸院で受けたお灸が、彼の人生に新しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのだ。
光風堂の窓から見える夕陽が、杏子の心にも温かい光をもたらしていた。
彼女は祖母から受け継いだこの技術が、これからも多くの人々を支えていくことを確信していた。
温かな熱が人々の心に灯り続ける限り、彼女の使命は終わらないのだ。