俺はもう長いこと、自分が何を求めているのか、よく分からなくなっていた。
仕事は退屈だし、友人たちは偽善的だ。
酒を飲んでも、女と寝ても、その瞬間だけの快楽にしかならない。
だから俺は、この世界から少しずつ離れていくことにした。
その手段として、お灸を見つけたのは偶然だった。
ある日、古本屋で埃をかぶった本を見つけた。『灸道秘伝』と題されたその本は、古びた和紙に墨で書かれたもので、そこには古来の灸の技術が詳細に記されていた。
俺はその本を手に取ると、衝動的に買ってしまった。
その夜、俺はすぐに試してみた。
もぐさをひねり、火をつけ、背中に据えてみる。
じりじりとした熱が皮膚を焼き、肉を焼く。
初めての経験に、少しの恐怖と多くの期待が交錯した。
しかし、痛みは思ったよりも鋭くなかった。
むしろ、痛みが和らいだ瞬間に、俺の心は奇妙に落ち着いた。
普段は感じることのない安堵感が、じわりと広がっていった。
まるで、今までの無意味な日々が、この一瞬のために存在していたかのように思えた。
次の日から、俺は毎晩お灸を据えるようになった。
仕事が終わり、夜になると、部屋の灯りを落とし、黙々とお灸を据える。
誰にも知られず、誰にも邪魔されず、ただ自分と向き合う時間。
俺は、次第にこの行為に依存するようになっていった。
痛みは次第に快感に変わり、俺は自分の体により強い熱を求めるようになった。
初めは背中だけだったが、やがて肩、腕、腹、そして足へと広がっていった。
もぐさの匂いが部屋中に充満し、熱が肌を焼き尽くすたびに、俺は生きている実感を得た。
だが、ある晩、ふと我に返ったとき、自分の姿を鏡で見て驚愕した。
そこには、皮膚が赤黒く焼けただれた男が映っていた。
体中に無数の跡が残り、まるで生きた人間ではなく、焼き尽くされた何かがそこにいた。
俺はその姿に驚きもせず、ただ静かに見つめ続けた。
美しいものは何一つない。
ただ痛みと熱だけが俺を支配していた。
だが、その瞬間、俺は理解した。
これは俺が求めていたものだと。
美も快楽も、偽善も欺瞞もすべてを超えた、その先にある真実。
それが、この焼け爛れた身体に刻まれていた。
そして俺は、もう一度お灸を据える準備を始めた。
熱が皮膚に触れると、再びあの落ち着きが戻ってきた。
俺はその熱に身を任せ、すべてを忘れ、ただこの瞬間に生きることに決めた。
幸福とは何か、そんなことはもうどうでもよかった。
ただ、この熱と痛みの中に、自分の居場所を見つけた。
それがたとえ、焼け尽くされる道であったとしても。
俺は、もう何も求めない。
ただ、この無意味な熱の中で、俺は生きていく。
それが、俺にとっての唯一の「幸福」だった。