彼はお灸の炎を見つめていた。
それは、燃えているというよりも、ただそこに「ある」だけのもののように思えた。
灰色の火、いや、火とすら呼べない曖昧な存在。
じっと見ていると、その「火」は実際に燃えているのか、彼の頭の中にだけ存在するのかさえ、わからなくなってくる。
彼は名前を持たない、というより、名前を失った男だった。
ある時、名前が必要なくなった。
名前とは、他者との関係を示すものだが、彼にはもはや誰もいない。
彼の周囲から人々は消え去り、ただ静寂だけが残った。
そして、彼はその静寂の中で、お灸に興味を持ち始めた。
もぐさを練り、丸め、慎重に火をつける。
それは一種の儀式のようだった。
火が彼の皮膚に触れる瞬間、僅かな熱と痛みが走る。
その瞬間に彼は、かすかに生きていることを感じるのだ。
しかし、その感覚はすぐに消え去り、再び灰色の静寂に包まれる。
ある日、彼は自分の身体に異変を感じた。
お灸を据えるたびに、皮膚がまるで砂のように崩れ落ちていく。
最初はただの感覚かと思ったが、見ると、本当に彼の皮膚は砂のように剥がれ落ち、床に散らばっていた。
彼は驚きもせず、ただその現象を観察した。
皮膚がなくなった部分には、何もなかった。
肉も、骨も、血もなく、ただ空っぽの空間が広がっているだけだった。
彼は、その空っぽの部分を何度も触ってみたが、そこには何の感触もなかった。
それはまるで、自分の身体が現実から徐々に消えていくかのようだった。
そして、彼の身体は徐々に砂に還り、消え去っていった。
残ったのは、部屋の中央に座り込んだままのお灸だけだった。
その灰色の火は、依然として燃えているように見えたが、実際には何も燃えていなかった。
ただ、そこに「ある」だけの存在。
彼の存在も、お灸の火と同じように、ただそこに「ある」だけだったのかもしれない。
彼が消え去った今、その「火」だけがこの世界に残り、静かに燃え続けている。
何も燃やすことなく、何も照らすことなく。
誰もいない部屋に、ただ灰色の火が残った。
それは、無意味で無価値な存在の象徴だったのかもしれない。
もしかすると、それは彼自身だったのかもしれない。
その「火」は、いつか消えるのだろうか。
もしかすると、この世界が終わるその日まで、ただ静かに、しかし無意味に、燃え続けるのかもしれない。
灰色の火は、まるで彼の存在そのもののように、無音で、無視され、そして永遠に続くかのように、そこに「在り続けた」。