僕がその治療院を訪れたのは、何の前触れもない、曇り空の土曜日だった。
誰かに勧められたわけでもなく、何か特別な理由があったわけでもない。
ただ、散歩している途中でふと目に入ったのだ。
治療院の入り口には、年季の入った木の看板がかかっていた。
「お灸治療所」とだけ書かれている。窓からは外の光がほとんど差し込まず、内部の様子はよく見えなかった。
外観だけ見ると、廃墟に近いような佇まいだったが、なぜか僕は引き寄せられるように中に入った。
中に入ると、薄暗い空間が広がっていた。
どこか湿った空気が漂っている。
床には古びた畳が敷かれ、壁には無造作に掛けられた漢方薬のポスターが貼られていた。
部屋の奥には、治療台がぽつんと一台置かれており、その横に、痩せた中年の男が立っていた。
「ようこそ、お灸に興味があるのかな?」
男は無表情のまま、冷静に僕を見つめていた。
「まあ……興味がないわけじゃないです」と僕は曖昧に答えた。
正直に言うと、どうしてここに来たのか自分でもよくわかっていなかった。
ただ、何かが僕をこの場所に導いたような気がした。
「お灸を据えると、体の中に溜まった悪いものが浄化されると言われているんだよ」
男はそう言いながら、棚からもぐさの入った袋を取り出した。
「もちろん、すべてが浄化されるわけではないけれど、少しでも軽くなると感じる人も多い」
僕は治療台に横になり、シャツをめくってお腹を出した。
男は僕のおへそに指を当て、じっとその位置を確認した。
彼の指は冷たかったが、その触れ方は不思議と優しかった。
「これが神闕灸というやつだ。おへその上に据えることで、体の中心を温めるんだ。悪いものが溶けて出ていく感覚があるかもしれないけれど、それは怖がる必要はない」
男はそう言って、もぐさに火をつけた。
小さな炎がゆっくりと燃え広がり、じんわりとした温かさが僕のお腹に広がっていった。
その温かさは、体の奥深くまで届くような感覚で、まるで凍った部分が溶けていくかのようだった。
「どうだい?」
男が静かに問いかける。
「暖かいです。……少し、落ち着く感じがします」
僕は答えた。
確かに、その温もりは心地よかった。
最近、ずっと体が重く感じていたが、それが少し和らいだような気がした。
けれども、その瞬間、僕は奇妙な感覚に襲われた。
目を閉じていると、ぼんやりとした映像が浮かび上がってきた。
それは、遠い昔の記憶だった。
幼い頃、祖母の家で過ごした夏の夜、縁側で風鈴の音を聞きながら見た星空。
あの静かな夜の温もりが、今この瞬間に重なっていた。
その感覚が不意に胸を締め付け、涙が溢れそうになった。
僕は目を開け、涙を堪えた。
どうしてこんな場所で、そんな感情が湧き上がってくるのだろうか。
けれども、男は何も言わず、ただ淡々と作業を続けていた。
やがて、もぐさが燃え尽き、煙が薄く立ち上るのを見て、男は静かに言った。
「これで終わりだ。何か変わった感覚があるかもしれないが、それは自然なことだ。お灸が体に働きかけている証拠だよ」
僕は静かに頷き、服を整えた。
治療室を出ると、外の曇り空が広がっていた。
しかし、先ほどまでの重苦しい感覚が少しだけ軽くなったように感じた。
まるで体の中にあった灰色の靄が、少しだけ晴れたような気がしたのだ。
その後、僕は再びその治療院を訪れることはなかった。
けれども、あの日の温もりと涙を堪えた感覚は、今でも僕の中に残っている。
まるで、何か大切なものがそこで確かに存在していたことを、僕に教え続けているかのように。
灰色の空の下、僕は静かに歩き続けた。