その夏、私は一人の女に出会った。
彼女の名前は、霧子。
年齢は三十代半ばほどだろうか、和装がよく似合う品のある女性で、どこか妖しい魅力を放っていた。
彼女と出会ったのは、ある知人の紹介であったが、私たちはすぐに奇妙な親近感を抱きあうようになった。
霧子はある夜、ぽつりとこう言った。
「私、お灸を据えるのが得意なの。あなた、神闕丹田灸ってご存知かしら?」
私はその言葉に少し驚いた。
神闕とはおへその位置を指し、丹田とは腹の下、エネルギーが集まる場所とされている。
霧子はその二つに特別な灸を据えることで、体と心を浄化する秘法があると言ったのだ。
「それは、ただの民間療法ではないのかい?」
私は少しからかうように答えた。
しかし、彼女の瞳は真剣だった。
「いいえ、これはただの灸とは違うの。私が祖母から伝えられたものよ。神闕と丹田に同時に灸を据えることで、体の中心を温め、失われた感覚や力を取り戻すのよ」
彼女の声は静かでありながら、どこか神秘的な響きを帯びていた。
私はその夜、彼女の言葉に惹かれるようにして、彼女の家を訪れた。
霧子の家は古い日本家屋で、庭には手入れの行き届いた苔庭が広がっていた。
夜の闇の中、彼女の家の灯りだけがぼんやりと輝いていた。
家の中に入ると、独特の香りが漂っていた。
それは、線香のようなものでありながら、どこか生々しい温もりを感じさせる匂いだった。
霧子は私を和室に通し、静かに言った。
「ここで横になってください。これから神闕丹田灸を施します」
私は彼女の言うとおりに、畳の上に横たわった。
薄い障子越しに、月明かりが微かに差し込んでいた。
霧子は静かに歩み寄り、私の腹の上に二つのもぐさを置いた。
一つはおへその上に、もう一つは丹田の位置に。
そして、火を灯した。
もぐさが燃え上がると、じわじわと熱が広がっていった。
最初はそれほど強くなかったが、次第にその熱は深く浸透し、体の中心が温まっていくのを感じた。
霧子は黙々とその作業を続け、まるで儀式のように慎重に手を動かしていた。
「どう感じますか?」
彼女が低く囁いた。
「不思議な感覚だ。体の奥から、何かが溶け出すような気がするよ」
私は率直な感想を伝えた。
確かに、ただの灸とは違う何かがあった。
それは、単なる温もりではなく、もっと深いところに働きかける力のように感じた。
そのまましばらくの間、私はもぐさの熱と霧子の手の感触に身を委ねた。
彼女の指先が皮膚に触れるたびに、まるで体の中を流れる血液が目覚めていくようだった。
全身が緩やかにほぐれ、心もまた静かに穏やかになっていく。
「この灸は、ただの治療ではありません。もっと深い部分に働きかけます。体の奥に眠る何かを目覚めさせるのです」
霧子の声は、どこか遠くから聞こえてくるような感覚だった。
やがて、もぐさが燃え尽き、彼女は静かにそれを片付けた。
私はゆっくりと起き上がり、霧子の顔を見つめた。
彼女は微笑んでいたが、その微笑みはどこか冷たい光を帯びていた。
「あなたの中に、何かが変わったはずです。これから、もっと深い部分に触れていくでしょう」
彼女はそう言い残し、部屋を後にした。
私はその後、自宅に戻り、鏡の前で自分の腹を見つめた。
何も変わっていないように見えるが、確かに体の中で何かが動き始めている感覚があった。
それは言葉にできない、曖昧でありながらも確かな変化だった。
それから、霧子との夜は何度か続いた。
神闕丹田灸を受けるたびに、私は彼女に少しずつ心を奪われていくようだった。
彼女の手が触れるたびに、体の奥底から新しい感覚が湧き上がり、彼女との結びつきが深まっていった。
しかし、ある晩、私はふと気づいた。
霧子が与えるものは、癒しではなく、むしろ支配だったのではないかと。
彼女はその微笑みの裏で、私の内側に潜む何かを操っているように思えた。
その夜、私は彼女の家を訪れることをやめ、再び一人の生活に戻った。
けれども、神闕丹田灸で感じたあの奇妙な感覚は、今も私の中に静かに残っている。
それは消えることなく、時折、腹の奥からじんわりと熱を感じさせる。
それが何を意味するのか、私はまだ知らない。
しかし、霧子との夜がもたらしたその記憶は、私の中で永遠に残り続けるだろう。
そして、私は再びあの温もりを求めることになるのかもしれない。
その時、再び霧子が現れるかどうかは、誰にもわからない。