その晩、僕はいつものように、冷蔵庫から取り出したビールを一口飲み、ソファに腰を下ろしていた。
部屋は静まり返っていて、窓の外からは微かに遠くの車の音が聞こえてくる。
僕はその音を耳にしながら、ただぼんやりと天井を見つめていた。
そんな夜に、彼女がやってきた。
名前は、村上聡子。
僕と同じように東京に住んでいるが、どうして彼女が僕の部屋にやってきたのか、正直なところ、よくわからない。
彼女とはそれほど親しいわけではなかった。
大学時代の友人の友人、という曖昧な関係に過ぎない。
「こんばんは、急に来ちゃってごめんね」と彼女は言い、玄関に立っていた。
薄いセーターとジーンズという、何の変哲もない格好だったが、どこか不思議な雰囲気を漂わせていた。
まるで、現実から少しだけ浮かび上がっているような感じだった。
「いや、大丈夫だよ。入って」
僕は彼女を部屋に招き入れた。
彼女が玄関に立っているのを見ていると、何か大切なものが失われるような気がして、早く中に入ってもらいたかったのだ。
彼女は部屋の中央に立ち、僕の顔を見つめた。
何か言いたそうだったが、すぐには言葉が出てこないようだった。
僕は冷蔵庫からビールをもう一本取り出し、彼女に手渡した。
「ありがとう。でも、今日はビールじゃなくて、ちょっと変わったことをお願いしたいの」
僕は眉をひそめた。
「変わったこと?」
彼女はバッグの中から、小さな袋を取り出した。
その袋には、見たこともない漢字が書かれていた。
そして、袋の中から、彼女は小さな丸いもぐさを取り出した。
「これ、神闕灸っていうの。おへその上に置いて、火をつけるんだけど……あなたにやってみてもらえないかな?」
僕は彼女の話に少し戸惑った。
なぜ彼女が突然僕にそんなことを頼んでくるのかもわからなかったし、神闕灸という言葉自体、初めて聞いたものだった。
しかし、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。
それに逆らうことができなかった。
「わかった。やってみるよ」
僕はそう言い、シャツを脱いで床に横になった。
彼女は僕のおへその上にそっともぐさを置き、マッチで火をつけた。
小さな炎がもぐさの先端で揺れ始めた。
「痛くないから、リラックスして」と彼女は言った。
火が燃え上がると、じわじわと熱が伝わってきた。
それは、決して不快な熱さではなく、むしろ心地よい温もりだった。
僕は目を閉じ、その熱が体の奥深くに染み込んでいくのを感じた。
しばらくの間、部屋の中は沈黙に包まれていた。
僕はただ、彼女の手がもぐさを扱う感触と、燃え盛る熱を感じ続けていた。
その静けさの中で、僕はどこか遠くの記憶をたどっていた。
まるで、長い間忘れていた何かが、熱の中から呼び起こされているような感覚だった。
突然、彼女が口を開いた。「あなた、最近何か大切なものを失ったでしょう?」
僕はその言葉に驚き、目を開けた。
しかし、彼女は真剣な表情で僕を見つめていた。
「どうして、そんなことがわかるんだ?」
「なんとなく、感じるの」と彼女は静かに答えた。
僕は黙り込んだ。確かに、最近僕は何かを失った。
明確に言葉にはできないが、それは仕事のプレッシャーや、人間関係の疲れ、日々の生活の中で消え去ったもののような気がしていた。
それが何なのか、まだ自分でもはっきりとはわからなかったが、その欠けた部分が僕の中で大きくなりつつあった。
「このお灸は、失われたものを見つける手助けをしてくれるかもしれない。少なくとも、私はそう信じている」
彼女の言葉に、僕は少し安心感を覚えた。
もぐさの燃え尽きた後も、その温もりは体の中に残っていた。