薄暗い霧の中、古い町並みの奥に佇む一軒の治療院があった。
名前も知らぬその建物は、遠くから見ると霞に包まれ、消えてしまいそうな儚い佇まいだった。
竹格子の窓から漏れる淡い灯りが、揺れる柳の枝に絡みつき、静かな夜の風景を一層幻想的にしていた。
その夜、若い女がその治療院を訪れた。
名は、藤野美津。
髪は艶やかに黒く、着物姿が艶やかだが、目には深い憂いが宿っていた。
彼女はここ数日、妙な夢に悩まされていた。
その夢には、いつも火が現れる。
燃え上がる炎が美津を取り囲み、その熱が肌に迫ってくる。
しかし、目覚めると体は冷たく、どこか寂しさが残るのだ。
「ここに、お灸の名人がいると聞きまして……」
美津は、静かな声でそう言った。
治療院の中にいたのは、一人の老婆であった。
顔には深い皺が刻まれているが、その目は澄んでおり、何かしらの秘めた力を感じさせた。
老婆は美津を見つめ、静かに頷いた。
「お入りなさい。お灸は、魂の痛みを癒すこともありますよ」
美津はその言葉に少し驚きつつも、導かれるように奥の部屋に入った。
そこは、薄暗く静かな空間で、古びた木の香りが漂っていた。
壁には、奇妙な図案が描かれた掛け軸が掛けられ、異国の趣を感じさせる。
老婆は、手際よく小さな器具を取り出し、生姜を薄く切り、その上にもぐさを載せた。
「生姜灸は、体の芯を温め、心の冷えを癒します。あなたの夢は、何か大きな変化の前触れかもしれませんね」
美津は老婆の言葉に耳を傾けながら、静かに目を閉じた。
老婆が火をつけると、お灸はじんわりと温かくなり、その熱が美津の肌に広がっていく。
それは、夢の中で感じた炎とは違う、穏やかな温もりであった。
だが、その瞬間、美津の頭の中に夢の記憶が蘇った。
再び、燃え盛る炎が彼女の周囲を取り囲む。
逃げ場のない熱が迫り、息が詰まりそうになる。
しかし、今回は違った。
お灸の温もりが、その恐怖を和らげ、彼女を静かに包み込んだ。
「この火は、何を意味しているのでしょうか……」
美津は小さく呟いた。
老婆は目を細め、静かに答えた。
「火は、浄化の象徴です。あなたの心に積もった何かが、その炎で焼かれ、清められようとしているのでしょう」
美津はその言葉を胸に刻み、再び目を閉じた。
お灸の熱がさらに深く浸透し、体の奥底から冷えが溶け出すような感覚が広がる。
その温もりは、まるで長い間忘れていた故郷の火鉢のような、懐かしさを感じさせた。
その晩、治療院を後にした美津は、夜風の中に漂う柳の香りを感じながら、どこか晴れやかな気持ちで歩き出した。
夢の中の炎が意味するものはまだわからない。
しかし、お灸の温もりが、彼女に一つの確信を与えていた。
それは、炎が恐ろしいものではなく、彼女を浄化し、新たな始まりへと導くものであるということ。
美津は、夜の闇の中に微かに揺れる灯りを見つめ、次の夜に訪れる夢を静かに待ち望んでいた。
そして、彼女はこの夜を境に、夢の中の炎と向き合うことができるようになった。
お灸の熱が彼女の心の奥底に響き、魂の痛みを少しずつ溶かしていったのである。