東京郊外の静かな住宅地に、一軒の古びた治療院があった。
名前は「松崎治療院」。
その看板は色褪せ、通り過ぎる人々の目には留まらない。
しかし、近隣の住民には評判が良く、肩こりや腰痛など、さまざまな症状を持つ人々が足を運んでいた。
特に、院長である松崎は、お灸治療の名手として知られていた。
その松崎治療院に、ある日、一人の女性が訪れた。
女性の名前は石田奈美子。
彼女は30代半ば、化粧品会社に勤める営業ウーマンであった。
最近、職場でのプレッシャーと長時間労働が続き、肩こりや不眠に悩まされていた。
友人の勧めで松崎治療院を訪れたものの、彼女の表情にはどこか不安の影があった。
「初めまして。松崎です。どうぞこちらへ」
松崎は静かな声で奈美子を迎え入れた。
白髪交じりの髪を持つ中年の男性で、その姿からは穏やかな人柄が伝わってくる。
施術室は木の温もりが感じられる落ち着いた空間で、まるで時が止まったかのように静寂が漂っていた。
奈美子はベッドに横たわり、松崎が準備を始めた。
彼は手際よく生姜を切り、その上にもぐさを載せて火を灯した。
「生姜灸を使っていきます。温かさが体の奥まで届きますから、リラックスしてください」
松崎は優しい声でそう説明した。
奈美子は目を閉じ、松崎が肩に据えたお灸の温もりを感じた。
じわじわと広がる熱が、彼女の疲れた体をゆっくりと癒していく。
その感覚は、何とも言えない安らぎをもたらした。
松崎の手際の良さと、空間全体に漂う落ち着きが、奈美子の心を静めていった。
施術が終わった後、奈美子はふと口を開いた。
「松崎先生、お灸って、心にも効くんですか?」
松崎は少し驚いたようだったが、すぐに静かな笑みを浮かべた。
「お灸は体を温め、血行を良くしますが、その過程で心の緊張も和らげることがあります。体と心はつながっていますからね」
奈美子は頷いたものの、何かを言いかけて言葉を飲み込んだ。
松崎はその表情に気づき、そっと問いかけた。
「何か気になることがあるんですか?」
奈美子はしばらく黙った後、ぽつりと話し始めた。
「実は、最近妙なことが続いていて……夜中に誰かに見られているような気がするんです。でも、誰もいないんです」
松崎は目を細めたが、言葉は発しなかった。
ただ、彼女の話に耳を傾けていた。
「最初はただの気のせいかと思ったんですけど、毎晩同じ時間に目が覚めて、そのたびに胸がざわつくんです。まるで何かが近づいてくるような……でも、そんなこと、誰にも話せなくて……」
松崎はしばらく考え込むようにしてから、静かに答えた。
「それは、不安や疲労が原因かもしれませんね。体が限界に達していると、心も敏感になります。まずはしっかりと休息を取ることが大切です」
奈美子はそれを聞いて少し安堵したようだったが、完全に納得しているわけではなさそうだった。
「そうですね……でも、なんだか不思議なんです。お灸を受けているときだけ、その不安が薄れていくんです」
松崎は微笑んで頷いた。
「それは、お灸の力というよりも、あなた自身の力かもしれませんよ。お灸がきっかけとなって、心が落ち着いているのかもしれません」
その言葉に奈美子は静かに頷き、治療院を後にした。
数日後、奈美子は再び松崎治療院を訪れた。
彼女の表情は前回よりも落ち着いていたが、まだ何かが心に引っかかっているようだった。
松崎は何も言わず、再び生姜灸の準備を始めた。
「松崎先生、この前の話ですが……まだ、あの気配を感じるんです。夜中、また目が覚めて……でも、お灸を受けると、その感覚が消えるんです」
奈美子の声は少し震えていた。
松崎はしばらく沈黙した後、静かに語り始めた。
「奈美子さん、もしかすると、その感覚はあなたの体が発している警告かもしれません。お灸を受けることで、その感覚が一時的に和らいでいるのだとしたら、心と体のバランスが崩れているのかもしれません」
奈美子はその言葉に耳を傾けながら、じっと考え込んでいた。
「体が発している警告……」
松崎は頷いた。「私たちは、心と体が密接に結びついていることを忘れがちです。お灸はそのバランスを整える手助けをしますが、根本的な問題を解決するには、あなた自身がその原因と向き合う必要があるかもしれません」
奈美子は深く息をつき、松崎の言葉を受け入れるように静かに頷いた。
「そうですね……もっと自分自身と向き合わなければならないのかもしれません」
その後、奈美子は夜中に目が覚めることがなくなった。
松崎治療院での生姜灸のおかげかもしれないが、それ以上に、彼女が自分自身の不安と向き合う決心をしたからかもしれない。
お灸の温もりが、彼女の心の奥深くにある恐れを静かに溶かしていったのだ。
松崎は、そんな彼女の変化を静かに見守っていた。
そして、その日も変わらず、彼は生姜を薄くスライスし、患者の肩にそっとお灸を据えた。