闇夜に包まれた古い邸宅の一室。
静けさが支配する中、畳の上に一人の女性が座っていた。
彼女の名は紗夜子。
この家に生まれ育ち、数十年を過ごしてきた彼女は、今日もまた独り、静かな儀式を始めようとしていた。
目の前に並べられた塩と灸の道具。
塩は白く輝き、まるで彼女の手から生まれ出た純白の結晶のようだ。
昔、この家には塩灸の儀式が代々伝わっていた。
それは単なる治療法ではなく、何かもっと深い意味を持つものだった。
紗夜子の祖母、そしてその前の代々の女性たちが、これを家族の守りとして用いてきたのだ。
「塩灸は魂を清め、悪しきものを払い去る」
祖母がそう教えてくれたことを、紗夜子は今も鮮明に覚えている。
祖母の言葉にはどこか重みがあり、子供心にそれが単なる迷信や儀式以上のものだと感じたものだった。
今夜、紗夜子は久しぶりに塩灸を据えることにした。
最近、何か胸騒ぎが続いていたのだ。
無意識のうちに心を揺るがす不安。
それは外から来るのではなく、内側から湧き上がる何かだった。
それを祓うために、紗夜子は祖母の教えを思い出し、塩灸に手を伸ばした。
塩を小さな山のように形作り、その上に灸を置く。
火を点けると、淡い煙が立ち上り、部屋に塩と燃え立つ草の香りが広がった。
ゆっくりと目を閉じ、紗夜子はその香りに意識を集中させる。
祖母が昔、同じように祈りを込めながら塩灸を据えていた姿が、瞼の裏に浮かんでくる。
その記憶の中の祖母は、いつも穏やかで、しかしどこか凛とした佇まいを持っていた。
彼女がこの家を守り、家族を守ってきたという誇りが、紗夜子の中にも流れている。
それが彼女を、今この瞬間へと導いているのだ。
「悪しきものよ、去れ」
心の中で呟きながら、紗夜子は塩灸の温もりを感じ取った。
熱が肌にじわりと伝わり、その中に微かに冷たい塩の感触が混ざる。
この矛盾した感覚が、彼女の心を静かに浄化していくようだった。
すると、紗夜子の胸の奥にあった不安が、次第に和らいでいくのが分かった。
塩灸の煙が、まるでその不安を包み込み、空気中へと消し去ってくれるかのようだった。
紗夜子はその感覚に安心し、深く息をついた。
そしてその時、不意に祖母の声が耳元で囁いたように感じた。
「紗夜子、あなたもこの家を守るために生まれてきたのよ」
祖母の言葉は、まるで長い時を経て今ここに蘇ったかのようだった。
その夜、紗夜子は深い眠りに落ちた。
夢の中で、彼女は祖母と並んで塩灸を据えていた。
二人は静かに微笑み合いながら、同じ動作を繰り返す。
その姿は、家族の守護者としての誇りと、永遠に続く絆を象徴していた。
翌朝、目を覚ました紗夜子は、部屋に漂うかすかな塩灸の香りを感じた。
それは、彼女が家族の伝統を受け継ぎ、この家を守っていく決意の象徴だった。
塩灸の儀式は、紗夜子にとって祖母との絆を感じる唯一の手段であり、彼女自身の魂をも清め、強くしてくれるものだった。
塩灸の煙が静かに消えたその瞬間から、紗夜子の心はもう揺らぐことはなかった。
彼女はこの家を、そして家族を守るために、これからも塩灸を据え続けるだろう。
祖母がそうしたように。