夏の終わり、蝉の声がまだ遠くで鳴り響いている。
そんな午後、私は母の手を握りながら、昔の話を聞いていた。
母がいつも私に語ってくれるのは、私がまだ幼かった頃のことだ。
けれど今日は少し違う話が始まった。
「お灸のこと、覚えてる?」と母が言った。
突然の問いかけに、私は少し戸惑ったが、すぐに頷いた。
幼い頃、体が弱かった私は、母に連れられてしばしばお灸を据えてもらっていたことを思い出したのだ。
お灸の温かさ、そしてその独特の香りは、今でも私の記憶に深く刻まれている。
「お祖母ちゃんもね、あなたにお灸を据えていたのよ」
母の言葉に、私は意外な気持ちで聞き入った。
私が生まれる前、母は体がとても弱かったという。
お祖母ちゃんが、毎晩のようにお灸を据えて、彼女の健康を守ってくれていたという話を初めて聞いたのだ。
「どうして今まで、その話をしなかったの?」
私は聞かずにはいられなかった。
母は少し微笑んで、言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「お灸はね、とても個人的なものだから。痛みや疲れを癒すためだけじゃなく、心の中の何かを温めてくれるの」
その言葉が、私の胸にじんわりと染み込んだ。
お灸はただの治療法ではなく、母や祖母にとって、それは家族の温もりを伝える手段でもあったのだと気づかされた。
私が母の手を握っている今、母が祖母から受け取った温もりを、私は受け継いでいるのだと感じた。
その夜、私は古い木箱を開けた。
母が私に残してくれた、お灸の道具が収められている。
小さな火皿と、木綿の布、そしてお灸の薬草が詰まった袋。
その香りが、かすかに漂ってくる。
「お母さん、お灸を据えてみてもいい?」
私は母に聞いた。
母は驚いたようだったが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「もちろん、あなたが望むなら」
母に教わりながら、私は初めて自分の腕にお灸を据えてみた。
熱が肌に伝わり、体の奥底から温まっていく感覚が広がる。
心の中にあった不安や、日々の忙しさが、少しずつ溶けていくような気がした。
「お祖母ちゃんも、きっとあなたを見守ってくれているわ」
母の優しい声が耳に届いた。
その夜、私はお灸の温もりに包まれて眠りについた。
夢の中で、祖母の姿が微笑みながら現れる。
お灸を据える祖母の手は、まるで私の手を通して母に、そして私自身に永遠の温もりを伝えているようだった。
翌朝、目が覚めたとき、私は静かな決意を感じた。
これからもお灸を据え続けよう。
それは私だけのものではなく、母と祖母から受け継がれた、大切な家族の絆だから。
それからの私は、母と一緒にお灸を据える時間を大切にするようになった。
その時間が、私たち家族をより深く結びつけ、永遠の温もりを伝えてくれると信じている。