夜が更けると、街の喧騒が少しずつ消え、静寂がビルの谷間を支配し始める。
そんな時間帯、俺は決まって自分の部屋に閉じこもる。
そして机の上に並べられた小さな炭とお灸の道具を手に取るのだ。
お灸なんて、普通の若者が手を出すものじゃない。
だが俺にとって、これが唯一、混乱した心を落ち着ける術だった。
歌うこと、叫ぶこと、ステージの上で自分を曝け出すこと、そんな表現の数々の裏にある不安と葛藤を、この灰色の煙が吸い取ってくれるような気がした。
「またやってんのか?」
バンド仲間のタクヤが呆れたように言ったことを思い出す。
「まあな」
俺は笑って返したが、その背後にある感情を悟られることはなかった。
タクヤは俺のことを理解しているつもりでいたが、誰も本当の俺を知ることはない。
炭に火をつけ、お灸をその上に置く。
徐々に立ち上る煙を見つめながら、俺は深く息を吸った。
煙は部屋の隅々まで広がり、その香りが鼻を突く。
それはどこか懐かしさを感じさせるものだった。
遠い昔、祖母がよく焚いていたお灸の香りが、俺の記憶を呼び覚ました。
祖母の家にいた頃、俺は毎晩のようにお灸の煙に包まれていた。
彼女はその煙の中で何を見ていたのか、今となっては分からない。
だが、俺にとっては、それが安心感を与えてくれるものであったことだけは確かだ。
音楽の道を選んでからというもの、俺の心は常に揺れていた。
人前で歌い、叫ぶことで、心の中にある闇を吐き出そうとしていたが、実際にはその闇は一向に消えない。
むしろ、深く沈んでいくような気がしていた。
そんな時、ふとしたことで見つけたお灸が、俺の心に新たな感覚をもたらした。
炭の上で燃え尽きるその小さな炎は、俺の中にある不安や焦りを徐々に和らげ、静けさを取り戻してくれたのだ。
その夜も、俺はお灸を据えながら、新しい曲のフレーズを頭の中で繰り返していた。
今度の曲は、俺の中にあるこの感覚をそのまま音に乗せるつもりだ。
灰色の煙が立ち上る様子を思い描きながら、歌詞を書き留める。
目に見えない不安を、この煙のように消し去りたいと願う気持ちを、メロディに込めるのだ。
「どうしてお灸なんだ?」とタクヤがまた聞いてくる。
俺は少し考えた後、こう答える。
「見えないものを感じるためさ。目に見えるものだけが真実じゃないからな」
タクヤは納得したような顔をしていたが、本当のところ、理解できたかどうかは分からない。
それでもいいんだ。
俺にとって大切なのは、音楽を通して、自分が感じたことを伝えることだけだ。
お灸の煙が完全に消え去った時、俺は新しい曲の最後の一音を心に刻み込んだ。
静寂が戻った部屋で、俺は深く息をつき、次のステージに向けて気持ちを切り替えた。
この灰色の煙が、俺の不安を和らげてくれたように、俺の歌も誰かの心を癒すことができるだろうか。
そんな思いを胸に、俺は静かに目を閉じた。