陽の光が傾き、庭の松の影が長く伸びている頃、祖母はいつもお灸を据える時間を迎えていた。
私が幼い頃から、この時間になると、縁側に座って彼女が黙々とお灸を据える姿を見ていたものだ。
お灸の香りが漂うと、何故か心が落ち着き、日常の些細な悩みも薄れていくように感じた。
ある日、私は学校から帰ってくると、祖母の部屋へと足を運んだ。
彼女はいつものように畳の上に座り、小さな火皿にお灸を焚いていた。
香りはすでに部屋に満ちていたが、いつもよりも何かが違うと感じた。
祖母の顔には、いつもとは違う疲れが浮かんでいたのだ。
「どうしたんだい?」と私は聞いた。
祖母は微笑んだが、その笑みには微かな憂いが含まれていた。
「ただ少し、体が疲れたのさ。歳を取ると、何でもないことが重たく感じるものだよ」
私はその言葉に、どう答えるべきか分からなかった。
祖母はいつも強く、頼りがいのある存在だった。
彼女が弱音を吐くことなど、考えたこともなかったのだ。
その日は、私も祖母と一緒にお灸を据えることにした。
彼女に教わりながら、初めて自分の腕にお灸を据えてみた。
熱さが肌にじんわりと伝わり、香ばしい煙が細く立ち上る。
その瞬間、祖母の背中に浮かぶ数多の小さな痕が目に留まった。
それは長年の労苦の証であり、彼女がどれだけの時間を自分自身の健康を守るために費やしてきたかを物語っていた。
「昔はね、お灸を据えるのが家族の習慣だったんだ」と祖母は話し始めた。
「おじいさんが亡くなった後も、私はずっと続けてきた。お灸を据えるたびに、彼の温もりを思い出すんだよ」
彼女の言葉は私の胸に深く響いた。
お灸は単なる健康法ではなく、祖母にとっては彼女の過去と今を繋ぐ大切な絆だったのだ。
その後、私は祖母と一緒にお灸を据えることが習慣となった。
彼女の教えを受け継ぎながら、お灸の香りに包まれるたびに、私は祖母の想いと繋がっているように感じた。
時折、祖母の手を取りながら、そのぬくもりが失われないようにと願いを込めた。
やがて、祖母は静かに息を引き取った。
彼女が残してくれたお灸の道具は、今も私の部屋の片隅に置かれている。
時折、その箱を開けると、懐かしい香りが立ち上り、祖母との思い出が蘇る。
お灸の香りは、過去と今を結ぶ橋渡しのようなものであり、私にとっては祖母との永遠の絆である。