彼女は、いつも午後三時になると温灸を始めた。
六畳一間のアパート、その古びた木の床に座り、静かに艾を燃やすのが日課だった。
彼女の名前はユカ、二十九歳。
スーパーマーケットのレジ係として働きながら、ひっそりと生きていた。
ある日、彼女の部屋を訪れたのは、かつての恋人、タカシだった。
彼は不意に電話をかけてきて、会いたいと言った。
久しぶりに聞く彼の声は、どこか懐かしく、しかし同時に心の奥底に痛みを呼び起こすものだった。
「やあ、ユカ。元気にしてるか?」
「うん、まあね。あなたは?」
「なんとかやってるよ。でも今日は、君に会いたくなって。」
午後の陽光が部屋に差し込む中、タカシは玄関に立っていた。
彼は少し痩せたように見えたが、その目は昔と変わらず、どこか遠くを見つめていた。
「入って」
ユカは静かに言った。
タカシは靴を脱ぎ、彼女の部屋に足を踏み入れた。
部屋の中央には、温灸のセットが置かれていた。艾の香りがほんのりと漂い、心地よい温かさが部屋を包んでいた。
「温灸か。懐かしいな」
タカシは微笑んだ。
「まだ続けてるんだね」
「うん。これが私の唯一の癒しだから」
ユカは艾を火にかけ、慎重に自分の腹部に置いた。
「これをすると、心が落ち着くの」
タカシはユカの隣に腰を下ろし、じっと彼女を見つめた。
彼の瞳には、過去の記憶がよみがえっているようだった。
彼らが一緒に過ごした日々、そして別れた日のことが、彼の心に鮮やかに蘇っていた。
「なぜ来たの?」
ユカは尋ねた。
「君に謝りたかったんだ。あの日、僕が言ったこと、全部嘘だった。君を傷つけるつもりはなかったんだ」
ユカは黙って、温灸の熱を感じていた。
その熱は、彼女の心の奥底に眠る痛みを溶かすように感じられた。
「私はもう、過去のことは気にしてないよ」
ユカは静かに言った。
「今はただ、ここで静かに生きてるだけ」
タカシは彼女の手を取り、しばらくその温もりを感じていた。
「僕も、変わらないといけないと思ってる。君のように、過去を乗り越えて」
その日、二人は何も言わず、ただ隣に座っていた。
温灸の熱が彼らの心を包み込み、過去の痛みを和らげていた。
夕方、タカシは静かに立ち上がり、ユカに別れを告げた。
「ありがとう、ユカ。君に会えて良かった」
「私も、タカシ。元気でね」
タカシが去った後、ユカは一人で部屋に残り、静かに温灸を続けた。
その熱は、彼女の心の中で、新たな希望の火を灯していた。
彼女は知っていた。
過去を乗り越えることは難しいが、それでも前に進むことができるのだと。
そしてそのためには、小さな癒しの儀式が、何よりも大切なのだと。
ユカは再び目を閉じ、温灸の熱を感じながら、新しい一日を迎える準備をしていた。