夜の公園は、昼間とは違う顔を見せる。
人気の少ないベンチに座り、僕は深く息をついた。
スマホを手に持ちながら、通知が来るのを待っている自分が滑稽だった。
「遅れてごめん!」
そんな声とともに、彼女が駆けてきた。
赤いセーターにデニムのスカート、手には小さな布製のポーチ。
少し息を切らせながら、僕の隣に腰を下ろした。
「これ、持ってきたよ。」
彼女がポーチから取り出したのは、お灸セットだった。
「お灸?」
僕は眉をひそめた。
「うん。今日はこれを試してみたいなって思って」
彼女は楽しそうに笑った。
僕たちは高校の保健委員で、健康についての情報を集めたり発信したりする活動をしている。
最近、彼女がハマっているのは「神闕丹田灸」。
お腹の真ん中にあるツボにお灸を据えて、体を温めるというものだ。
「こんな夜に、公園でお灸をするって?」
僕は呆れたように言ったが、彼女は気にする様子もなくポーチを広げ始めた。
「だって、家じゃ試せないでしょ。お母さんに変な顔されるし」
「それなら、部室とかでやればいいじゃないか」
「部室はつまらないよ。夜の公園でやるから特別な感じがするんだよ」
その言葉に、僕は少しだけ心が揺れた。
彼女のこういうところが嫌いじゃない。
普通ならしないようなことを平然とやってのけて、楽しんでしまう。
その無邪気さに、僕は惹かれているのかもしれない。
彼女はもぐさを丸めて小さな台に載せると、ライターで火を点けた。
淡い光が僕たちの間に広がり、静かな温かさが漂う。
「これが神闕丹田。おへその少し下あたりだよ」
彼女は自分のお腹に手を当てて説明した。
僕もなんとなく真似をして、自分のおへそに触れてみた。
「丹田はね、エネルギーの中心なんだって。ここを温めると、体だけじゃなくて心も落ち着くんだよ」
彼女の声はいつもより少しだけ真剣だった。
その言葉を聞いて、僕はなんとなく頷いた。
「じゃあ、やってみる?」
「え?俺も?」
「もちろん。二人でやらなきゃ意味ないでしょ」
彼女は僕のためにもうひとつのお灸を用意してくれた。
少しだけ緊張しながら、僕はそれを自分のお腹に置き、火を点けた。
もぐさが燃え始めると、ほんのりとした熱が体に染み込んでいく。
「どう?」
「……あったかいな」
その瞬間、不思議な感覚が僕を包んだ。
体の芯がゆっくりと温まり、普段は意識していなかった部分が静かに目覚めていくようだった。
それと同時に、僕の中にある不安や迷いが少しずつ薄れていく気がした。
「ね、不思議でしょ」
彼女は僕を見つめて微笑んだ。
その笑顔は、お灸の熱よりも温かく感じられた。
その夜、僕たちは神闕丹田灸をしながら、たわいもない話をした。
学校のこと、将来のこと、そして、まだ曖昧だけれどどこか確かなものを感じる、僕たちの関係のことも。
数年後、僕たちは別々の道を歩んでいた。
けれど、あの夜の記憶は今でも鮮明だ。
忙しい日々の中でふとお灸を思い出し、試してみるたびに、彼女の笑顔が浮かぶ。
お灸の熱が僕の体を通じて伝えてくれるもの。
それは、あの夜、彼女がそっと残してくれた、小さな温もりと確かな約束だった。