その日、僕は午後の静かな時間を持て余していた。
コーヒーを淹れて、読みかけの小説を開いたものの、どうにも集中できない。
どうしてか分からないけど、体の奥深くに何かが詰まっているような感覚がしていた。
まるで、言葉にならない何かが自分の中で眠っていて、それをどうにかしないと、この午後の沈黙が僕を飲み込んでしまうような気がした。
そんなとき、ふと思い出したのは、あの奇妙な鍼灸院のことだった。
名前は忘れてしまったが、確か「神闕丹田灸」を扱っていると看板に書かれていたはずだ。
神闕なんて言葉を僕は今まで聞いたことがなかったけれど、なぜかその響きが妙に心に引っかかっていた。
何か神秘的なものを感じたのかもしれない。
人間は時々、そんな風に意味のないものに引き寄せられることがあるものだ。
僕はコーヒーを飲み干し、上着を羽織って外に出た。
町の喧騒がすぐに耳に入ってきたが、なぜかその日はいつもより静かに感じた。
歩くほどに、頭の中で不思議な感覚が広がっていく。僕の足は自然とその鍼灸院へ向かっていた。
薄暗い路地を曲がった先に、その店はあった。
外見はどこにでもある古い木造の建物。
引き戸を開けると、中には年配の女性がひとりで座っていた。
「いらっしゃいませ」
女性は穏やかな笑顔で僕を迎え入れた。
彼女は名前を聞くこともなく、ただ「どうぞ」とだけ言って、僕を施術台へ案内した。
僕は何の前触れもなく、すぐにその施術に身を委ねることにした。
まるでそれがごく自然な流れであるかのように。
「今日は神闕丹田灸を受けてみますか?」と女性は静かに言った。
僕は頷いた。彼女が何を言っているのか分からなかったけれど、なぜかそれが必要なものだと感じた。
彼女は丁寧に僕の腹部に触れ、もぐさを丸めて、その上に火を点けた。
ほんの少しの熱が、じんわりと肌に伝わり、腹の中心から静かに広がっていく。
「神闕は体の中心。丹田はエネルギーの源です。ここを温めることで、心も体も整えられます」
その説明を聞きながら、僕はぼんやりと目を閉じた。
お灸の熱は思ったよりも優しく、何も焦ることなく、ゆっくりと僕の中にしみ込んでいくようだった。
まるで、体の中に長い間眠っていた何かが少しずつ目覚めていく感覚だ。
「何かが動いている……」と僕は思った。
時間の感覚が曖昧になり、どこか遠くの世界に漂っているような気分になった。
熱は僕の腹から胸、背中、そして心の奥深くにまで広がっていく。
そのたびに、僕の中の詰まった感覚が少しずつ溶けていくようだった。
「君の中には、まだ何かが眠っているんだね」
その言葉が、どこから聞こえてきたのかは分からなかった。
僕自身がそう思ったのかもしれないし、施術をしている女性が静かに囁いたのかもしれない。
けれど、その言葉は確かに僕の中に響いた。
お灸が終わる頃、僕はゆっくりと目を開けた。
部屋の中は相変わらず静かで、まるで何事もなかったかのようだった。
しかし、僕の中には確実に何かが変わっていた。
言葉にならない感覚が、少しずつ解き放たれて、静かに流れ始めていた。
「どうでしたか?」
女性が優しく問いかけた。
「不思議な感じです。何かが目覚めたような気がします」
僕は正直に答えた。それが何であるかは分からなかったが、それを無理に言葉にする必要もないように思えた。
女性は静かに微笑んで、僕の言葉に頷いた。
「それが神闕丹田の力です。これからも、その感覚を大切にしてくださいね。」
僕は礼を言って、店を後にした。
外に出ると、冷たい風が肌に触れたが、心の中には温かさが残っていた。
いつもとは違う感覚の中で、僕はゆっくりと町を歩きながら、今しがた体験したことを反芻していた。
まるで、僕の中の何かが再び動き始めたように。
それが何を意味するのか、僕にはまだ分からなかった。
だけど、その問いが僕の中で少しずつ形を持ち始めていることだけは、確かだった。